ナラティブ・アプローチにおける映し鏡としてのソーシャルワーク機能について考える

公開日: 2012/06/28 MSW SW解体新书制作委员会

日々現場で、患者さん家族が「こちらに求めている言葉」というものがあることを感じることがあります。簡単に言うと「こう言って欲しいという言葉」のことです。




「こう言って欲しいという言葉」

それはときに、困難な現実を前にして、様々な意思決定の扉の鍵を他者に委ねたい(相手の考えを、選択の決定打にしたい)という思いを含んだものでもあるように思います。


患者さん家族が「こちらに求めている言葉」のその多くは、患者さん家族の選択の決定打になることはほとんどありません。(このことについてはまた改めて記そうと思います)

ですが、ソーシャルワーカーが、「患者さん家族がこちらに求めている言葉」だと感じるそのものこそが、今、患者さん家族の中に生じている葛藤を理解しようとする上で、非常に示唆的なものになることは間違いないと思っています。(もちろん、援助者としての感度、という質の問題も避けては通れませんが)


患者さん家族から感じる「こう言って欲しい」という「こちらに求めている言葉」は、本当は自分自身(患者さん家族)がそう言い切ることができれば、どんなによいだろうかor言い切ってしまいたい「自分が自分自身に求めている言葉」なのだろうと推測するのです。


患者さん家族から感じる「こう言って欲しい」という「こちらに求めている言葉」の存在を聴く側である援助者
がキャッチしたとき、援助者として振る舞えるのは「鏡」としての役割のみだと考えています。


以前に、「ナラティブ・アプローチにおける「舞台化された身体」について考える」というエントリで、「舞台化された身体を提供するということは、移し鏡に似ているのだ」と述べた理由は、先述したもので補完されます。


家族や友人などの日常の中に存在する関係性の中にある他者は純粋な「舞台」には成り得ないのです。関係性が彼らを舞台化することを許さないからです。



ソーシャルワーカーと患者さん家族の間に存在する「援助関係」という「非日常の特殊な関係」があるからこそ「舞台化」された身体を提供でき、その空間を「舞台化」した「リアル」として共有できるのだと思うのです。



「鏡としての役割」は、ただそこに「居る」ということではなく、患者さん家族への対峙の仕方(鏡への映し出し方)を微調整していくことにあるのだと考えています。



この先の言語化は今の私には無理なので控えますが、患者さん家族自身の「今、見つめるべき自分(が対処しなければならない問題)の姿」をどう映し出せるか、ということこそが、「患者さん家族への対峙の仕方(鏡への映し出し方)を微調整していくこと」なのだと考えています。






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