エッセイ)急性期病院における「非日常性を有した関係」を活かした「ナラティブ」ソーシャルワークについて考える

公開日: 2014/02/05 MSW コミュ論 思索 実践モデル



急性期病院におけるソーシャルワークは、援助期間が限定されており、かつ、機関の特質上、「非日常性を有した関係」をクライエントを築き得る可能性を有しています。
だがしかし、私は、問題解決ばかりに焦点を当ててしまい、どうしても「非日常性を有した関係」を活かした「ナラティブ」を大切にできない時があります。


そんなとき、自分の中に「余裕」がないのだな、と自覚します。


「非日常性を有した関係」を活かした「ナラティブ」というのは、ソーシャルワーカーが、患者さん家族が対峙する「変えることのできない今」に対する意味付けや認識の過程(語り)を支えたりすることを指します。


私は、「そうすべきだ」と心が叫んでも、問題への焦点化を急いでしまう時、どうしても「ナラティブ」を置き去りにしてしまう。そのとき、自分の力のなさを痛感するのです。



「問題解決」への焦点化アプローチと、「非日常性を有した関係」を活かした患者さん家族の「ナラティブ」を支える舞台化した援助者としての身体の提供。この2つは両立しうるはずなのですが、現時点での私には、その納得解が得られずにいます。



急性期病院におけるソーシャルワークにおいて、
なぜ、私は、「ナラティブ」を大切にせねばと思うのか?


それは、急性期病院が、「病気や怪我によって起こりうる生活の大きな変化」が起こる場所であり、かつ、そこで、クライエントとソーシャルワーカーとの間に築かれ得るのは、「非日常性を有した関係」だからです。


「非日常性を有する関係」というのは、その人の生活圏域にいる他者との間には決して築くことのできない関係のことを指します。


「さようなら」と部屋を出たら、病院を出たら、「交わることのない人」だからこそ、言えることがあると思います。(厳密には、伝えたいという意味での”言う”ではなく、言葉を投げ、投げた言葉が戻ってくる”無機質だけれどもすこしあたたかかい壁”のようなもの。)


”無機質だけれども少しあたたかく柔らかい壁”に向け投げた言葉は、当たって自分のほうに戻ってくる。「どんな戻り方」をするかが、言葉の投げ手に「新しい気づきや認識」を付与することができるのだと考えています。


「非日常性を有する関係」は、ソーシャルワーカーを”無機質だけれども少しあたたかく柔らかい壁”化する作用を有すると思うのです。



ナラティブアプローチにおける援助者としての舞台化された身体、という過去エントリを以前に記しました。


ソーシャルワーカーは、演劇における演者には、決してなり得ません。
でも、ときに、視界が狭くなると、問題解決への舵取りをクライエントから無自覚で奪っていまう「主役化」してしまう危険性が生じます。ハートが熱い人ほど、このリスクは高いように思うのです。


私はこのように、比喩的に、現場を「舞台」に見立てることをよくします。


そうすることで、援助者としての自分が、いっとき、舞台にあがり限定的に共演者として振る舞うべきか、それとも舞台化した身体を提供すべきか、はたまた舞台装置として「舞台と、舞台の演者たちに間接的にどう関わるか」等というように考えるのです。


私は、現場で「余裕」をどれだけ生み出せるかをここ数年もの凄く考えてきました。
なぜなら、余裕がなければ、自らが持ち得る全ての資源を、最大限のパフォーマンスでクライエントに提供することが難しくなるからです。


ですが、「非日常性を有した関係」を活かした「ナラティブ」を置き去りにして、問題解決へのアプローチのみに焦点化していることに気づくとき、もっと、援助者としての自分のキャパシティを拡張しなければと思うのです。



様々な前提条件に自覚的になれば、なるほど、みえるもの、気づくことは増えていく。
それは、すなわち、援助者として「深まっていく」過程であり、同時に、深まれば深まるほど、現状に満足できず、違う景色を目指そうとする。


その繰り返しで、援助者としての階段を登っていくのだろうな。
そんなことを思う一日でした。



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