援助過程で登場する人々を「クライエントに関わり合おうとする人々」と定義することの意味について考える

公開日: 2014/03/19 MSW チームアプローチ 教育 思索

過去のエントリで、急性期病院のソーシャルワーカーとして、短い時間の中でクライエントを支える地域のチームを結成するために為すべきことは、「ケースを支えるための(仮)支点になる、そして、ケースを支える(本)支点を探し、働きかけ、増やす」の2点だと考えます。と述べました。




上記視点で考えたとき、クライエントに関わりのある人たちを、人的資源として捉え援助をすすめていくことは、当たり前の思考展開となります。


ですが、クライエントが自機関の対象である時間のみにフォーカスしすぎるきらいがある援助者は、自身が描く援助過程に「登場してはならない人物」が出てきた際に、それを障害としてしか捉えず、あたりまえにもっているその人の資源(人間関係のひとつ)だという考えことが難しいように感じます。


「遠方から口だけ出してくる親戚」も、「なんだかよくわからない彼氏彼女」も、「制度のよくわかっていない民生委員」も、援助者が出会うよりもずっと長い時間、その人と関わり合い、そして今があるということをきちんと「想像」すべきだと私は思います。


誰かに関わり合う、というのは、エネルギーのいることだし、なによりそこには関わり合い続けている「理由」と「歴史」がある。そのことを勘案せずに、自身の想像する援助過程に「登場するはずの無い人物」=障害、というのは、援助者として浅はかすぎると私は思うし、それは想像力の欠如だとも思うのです。


そういう視座で現場に立っていないと、容易に援助者自身が主人公化します。
これは本当に恥ずべきことで、クライエントに「関わり合おう」とする人たちの「理由」と「歴史」を、援助過程の地図にクライエントと共にきちんとマッピングしていく、というイメージを私はしています。


観測し、対象化し、専門家的視点で、クライエントや、その周辺の登場人物たちを、みればみるほど、温度やリズムやさまざまなノイズは削がれ、コンクリートのように無機質な情報の羅列と化す。そうして、人に対する興味や敬意は失われ、情報の羅列は、「問題」と「対処」に二分化していくのです。


私は、クライエントと共有する短い時間の中で、登場する人たちすべてを「関わり合おうとする人」と定義します。そうすることで、その人の「理由」と共有した「歴史」に想像を及ぼすことができ、そして、私も援助者として「今ここから」クライエントとの「歴史」を紡ぎはじめることができると思うのです。

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至極当たり前のことを言ってくれる援助者の先輩がいないのだとしたら、そこはいい教育環境の乏しい現場かもしれない。知識や技術はいくらだって学べるけれど、自らの価値や倫理や専門職として現場に立つ際の「態度」に自覚的でないと「気づくこと」は少なくなる。それは援助者としての機会の損失と同義だと私は考えます。


これは経験則ではあるけれど、気づくことができないと、学びの機会は本当に少なくなります。多くのことに気づくことができると、その分、自らで学びの機会を永久機関的に生み出せる。そこに知識や技術を接続させることができれば、学びは累乗的に増えていくのです。


「気づくことができない」は、ポジティブに言うと「スルーできる」ということなのですが、私は「楽してスルーし続ける時間」なんぞ価値が無いと思っているので、「日々、気づき過ぎて、思考し続けなければならない」という時間の方に価値を置くので、「気づくためのカラダ」をいつも意識します。


「気づき」は、様々な機会を生み出すことに繋がります。
気づいたことの格納庫の数が増えていき、格納庫の容量を超えると「問い」を生み、「問い」は持ち主に対し、行動を省みることを要請します。


「おまえはそれでよいのか?」と。
気づきは問いを生み、問いは行動を変えるために思考する機会を生み出す。


現場に立つ援助者として、そういった循環構造を持つべきだと私は思います。


みなさんは、どのような学びの循環構造をもっていますか?


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