「リスクとったね。自分にはできないよ。そんな勇気はないもの」

公開日: 2017/03/05 思索

「リスクとったね。自分にはできないよ。そんな勇気はないもの」

最近、他者から自分に投げかけられたそんな言葉に、どこか懐かしさを覚えた。


=====================
社会人3年目くらいの頃、学生時代のバイト仲間が海外の大学院に留学するということで、壮行会をかねて当時のバイト仲間であつまった。

専攻を聞いたところ、当時彼女がしていた仕事とは傍目には関係のなさそうだと感じ、少し驚いたのを覚えている。

彼女の抱負やらあつまったメンツの近況報告やらを終え、帰り際、自分は彼女に言葉をかけた。

「キャリアを変更して、一人海外に留学だなんて、勇気があると思う。尊敬するよ」


少し驚いたように目を見開いた彼女は、言った。

「勇気かあ。そんな風に言ってくれるの嬉しい。でも、勇気だなんて、そんな大それたものじゃないよ。キャリアのハシゴは自分でつくらなきゃ。ガシッと自分で掛けなきゃね。」

当時、自分が「勇気がある(リスクを取りに行った)」と感じた「キャリアをチェンジし、見知らぬ土地への大学院進学」という選択肢は、彼女の物差しで計ったとしたならば、「勇気」でもなんでもなく、「未来を想像したうえで、確実に掛けに行ったハシゴ」だったようだ。

=====================

当時、さまざまなことを書き殴っていたノートを読み返すと、「28歳に主任MSWになる」という、25歳のときに立てたキャリアプランが書かれていた。少し笑えてしまう。
7年前の自分に、今の自分の状況を伝えたならば、「勇気があるね(リスクをとったね)」と返答をするのだろうか。
3年前に以下の文章を書いた。

====================

誰しもときに人生の羅針盤のようなものが欲しくなる時があるように思う。
思う通りにならないとき。先行きが不透明で恐怖におののくとき。悲しいこと、自分ではどうにもならないことが起きたとき。

過去に比べて社会の変化が早すぎる(と感じられる)からこそ、「自分が信じていたものが、そうではないかもしれない」という疑念に駆られやすい。

職業に引きつけて言えば、だからこそ、社会の変化に目を背け、自分のテリトリーに篭るのはひとつの生存戦略であるかもしれない。

職業上の、「専門性」と呼ばれる職業的屋台骨は、いわば、「軸足」のようなものだ。

であるならば、日々のトレーニングで軸足を鍛え、片方の足で自分をきちんと支えることができるようになりながら、もう片方の足をコンパスのように、バスケットのピポッドのように移動させながら、「成すべきこと」へ、リーチをしていく。自分の使命や興味、関心に合わせて。

軸足だけを鍛えているだけでは、もう片方の足でリーチする仕方を学ぶことはできず、軸足を鍛えることをないがしろにし、片足でリーチをしようとしても、重心がぶれて、転倒してしまう。

軸足を鍛えながら、(自分の軸足を何で構成するかを思考し試行しながら)、もう片方の足で何にリーチするかを考え、実際にリーチしていくんだ。

=====================

上記の文章を書いた当時、自分は現場から離れるか(医療機関のソーシャルワーカーとして働き続けるかどうか)どうか迷っていた。そんな自分を鼓舞した文章だったように思う。

=====================

「リスクとったね。自分にはできないよ。そんな勇気はないもの」


社会人3年目くらいの頃、友人に向けて投げかけた言葉が、ブーメランのように自分に返ってきたような気がした。

リスクを不確実性と読んだならば、「伸るか、反るか」の結果として得たいと願う現実をひきよせる確度をあげることも、そして、「成功」の定義を捨て、改めることも、また自分に委ねられることであるようにおもう。

リスクをとるとは、そういうことであったか。
恥ずかしながら、社会人3年目のときにはわからなかったことである。
  • ?±??G???g???[?d????u?b?N?}?[?N???A