相手を信じるというコミュニケーションスタイルが他者に与える安堵感についての一考察

公開日: 2013/03/29 MSW コミュ論 思索


骨折で入院した患者さん。脳梗塞の既往がある。

こちらの言うことの理解は問題なくできるけれど、運動性の失語があり、言ってることがほとんど聞き取れない。なんとか聞き取れる単語とジェスチャー、筆談を織り交ぜながらコミュニケーションをとる。


初回面接の終盤、本人の考える短期的な到達点への共通の認識が得られ、面接終了の確認、次回の面接時のことなどを話している時だった。なんだか、自分が元気づけられ、安堵していることに気づいた。



言語障害のある患者さんと関わった経験は少ないわけじゃない。

でも、言葉を基軸にしないコミュニケーションの過程でこのような安堵感を感じるのははじめてだった。よく目を動かし、手で感情を表現し、よく笑い、よく眉毛を動かす。他者の手に触れる。握手をする。その人が表現する、伝えようとする、目や手、顔の表情、すべてがとても色鮮やかに感じられた。


自分が確かに感じた安堵感は、後付けではなく、はっきりと、それが「安堵」だと瞬時に自覚できるものだった。それに気づき、自らの安堵感の出所を探ってみた。
そして、それは、おそらく、その人が全身で表現した「よろしくな!」という「まずは、目の前にいる人間を信じてみる」という態度表明を受けてのものだったのだ、ということに気づくに至った。


他者に向けられた「信じる」という祈りにも似た行為は、おそらく、容易な一方通行を許さない。その行為を向けられ、それを感じ得た人間に、「おれはあんたを信じてみるよ。で、あんたは、どう振る舞う?」という問いをつきつけると思うから。


他者にそう感じさせるようなコミュニケーションは、その人自身が、人と向き合う際にどのような哲学や流儀を有しているか、ということに依拠するように思う。


「わたしは、まず、あなたを信じようと思う。だから、あなたも、とりあえずさ、私のことを信じてほしいんだ」


私が「色鮮やかだ」と感じたその人のコミュニケーションのスタイルは、障害を経て、得た人との向き合い方の流儀なのか、生来のものかはわからない。もしかしたら、後天的な障害をおったのち、「メッセージを相手に届ける」ということについてのもどかしさや苦しさを、経た上で、達観として得られた「まずは、自分が届けたいメッセージの宛先である相手を信じてみることからはじめる」というものなのかもしれない。と、そう思った。


もちろん、これは、推測であり、私自身の定義で言うところの「想像力不足を援助者が期待するストーリーで埋める」ことに他ならないと言ってしまえばそれまでなのだけれど、自分自身が得た安堵感の居所を、きちんと明らかにしていこうとする探索作業を経て、改めて気づくことがあるのだ、と感じるとともに、患者さんに感謝した1日だった。


信じてもらえたという感覚は、他者に安堵感を生む。
日々、きちんと、目の前の患者さん家族やスタッフを信じられているかな。
そんなことを胸に問うてみた。まだまだだなー、自分。




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