無自覚な「援助者は決してあきらめない論」が有する負の要素についての一考察

公開日: 2013/05/02 MSW SW解体新书制作委员会 思索



本エントリでは、援助者がもつ精神論のひとつである「援助者は決してあきらめない論」について考えてみようと思う。*本エントリでは、機関が援助の主対象とする相手を「クライエント」、クライエントと家族を「家族というエコシステム(生態系)」と定義する。)


「本人の意思、気持ちに沿って、あきらめない」
「援助者があきらめたら、最後だ」


最初に言わせていただくと、援助者から聞かれる上記の言葉を、否定するつもりは全くない。熱いハートがあるからこそ、援助者のパワーを引き出せることがある、ということは私も自覚をしている。


その上で、本エントリでは、「援助者は決してあきらめない論」が持つ、負の側面。言わば、考えられ得るマイナスの要素について考える。物事には両側面があるように、援助者が有する精神論についても、両側面からの考察をし、冷静に「援助者は決してあきらめない論」を見つめる必要があると考えた。


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1.あきらめない論における主体は誰か?


援助者が「あきらめない論」を採用するとき、その行動の全ては「あきらめる」ことを促進する阻害要因を排していくという方向に働く。

まず最初に「何をあきらめないのか?」という問いが存在する。
これは、「クライエントの意思や気持ち」であることがほとんどだろう。


「クライエントの意思や気持ち」というのは、援助者の「決してあきらめない論」を形作る「土台」になる。それを土台に、援助者は「あきらめる」ことを促進する阻害要因を排していくという方向に向かっていく。


本来「あきらめない」のはクライエントのはずであり、"「あきらめない」最後の1人としてのクライエントを支える他者(専門職)としての「あきらめない論」"を援助者は採用すべきだが、ここには、あきらめない論における主体のすり替え(クライエントから援助者へ)という危険性が潜んでいる。


あきらめない論の土台にある、人間の「意思・気持ち」は、「揺れる、変わる」という可変性をもつものであり、援助者が共有したクライエントの「意思、気持ち」は、「こたえという表象物」に過ぎないというのが個人的な考えだ。
(上記については、ナラティブ・アプローチ論:「こたえ」という表象物がもつ意味について考える」について記しましたのでご参照ください)



「揺れ、変わる」という可変性をもつクライエントの「意思・気持ち」を共有し、それを援助者の「あきらめない論」の強固な土台にしたとき、対象となるクライエントの「揺れや変化」は「あきらめる」ことを促進する阻害要因になり得る。


援助者の前で表明されたクライエントの意思・気持ちは、揺れ、変わりゆくものであり、かつ、限られた時間、関係性の中で、語られた意思・気持ちの「一側面」でしかない。この認識はとても大切なことだと考える。


というのは、クライエントの「意思・気持ち」を土台にした「援助者は決してあきらめない論」を採用するとき、本来援助者側が尊重し、感知する必要のある「クライエントの揺れや変化」を過小評価してしまうという危険性があるからだ。


クライエントの揺れに沿い、変化を認め、その先にどういった未来を描いていくのか、ということを共有することができなければ、それは援助とは言えない。自論や自説の押しつけは(そう援助者が自覚していないとしても)、クライエントの利を最優先することにはならないだろう。


本来クライエントが取るべき問題解決の舵取りを、援助者側が奪ってしまっていないか?という疑問符を自らに投げかけることができなければ、あきらめない論の主体は容易にすり替わり、クライエントではなく、援助者としての自論、自説を強化する方に働いてしまう。


その危険性を自覚すべきだと私は考えている。


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2.援助者の無自覚な「あきらめない論」は、ときに家族というエコシステムを破損させる


クライエント本人と、その家族の意志や気持ちが異なる。そこに両者のジレンマが生じているという場面に遭遇したとき、本来、援助者はクライエント本人だけの気持ち、家族だけの気持ち、どちらかのみに傾倒することはしない。


その理由は、クライエントと家族の間にジレンマが生じている時点で、クライエントが有している問題は、もはや、クライエント自身だけの問題ではなく、クライエントとその家族という「家族というエコシステム」が有する問題(システムエラー)となっていると考えるからだ。



医療現場で働いていて思うのは、「家族が患者本人を家に連れて帰りがらない(退院させたがらない)」「あの家族は理解が悪い」という容易なマイナス要素のラベリングの対象になりやすいのが、「家族」という存在だということ。


医療機関におけるサービスの主対象となるのは「患者」であり、その家族はいわば、「患者」をサポートすべき役割として位置づけられる。


だからこそ、「家族」が「患者」をサポートすべき役割を放棄したり、それを担おうとしないとき、医療機関は「あの家族は非協力的だ」「あの家族は理解が悪い」というように家族を評することが多い。


ですが、本来ここで注視すべきなのは、「家族」が、患者本人をサポートする役割を担えないというシステムエラーが「家族というエコシステム」に生じている、ということ。


そのエラーがどこからくるのか。エコシステム内のエラーを探し、破損部位を特定し、手当をする。手当に必要なものを見定め、それを収集し、手当部位に総動員させる。


そういった視点で、家族というエコシステムを捉えることができないと、機能不全を回復させたり、エラーを復旧させたりということが難しくなり、そして、援助者の無自覚な「あきらめない論」は、家族というエコシステムを、破損する方に働くことになってしまう。


無自覚な「あきらめない論」を採用した援助者は、「危機的状況下(クライエントにとって他者の援助が必要だろうと断定できる状況)」いうレバレッジ(てこ)を効かせて、家族というエコシステムに土足で上がり込み、「あきらめない論」という刃で、エコシステムを破損させる。


「患者さんは、こう言っています。こう希望しています」(無自覚な代弁)
「ご家族は、なぜみれないのですか?なぜできないのですか?」


というように。


家族というエコシステムが形成されてきた時間も歴史も知らない、出会ったばかりの援助者が、その青臭い正義感で、無自覚な「わたしは援助者としてクライエントの希望をあきらめない」論を、振りかざす。

その結果、家族というエコシステムのシステムエラーの補修どころか、新たな破損部位を生み出す。


そういった援助者にならないために、先達たちがいう「熱い心と冷静な頭」が必要だ


いち援助者として「わたしはあきらめない!」と思うとき、一緒に問うこととしたい。


「誰が、誰のなにを、誰のためにあきらめないのか?」と。


援助者がいるフィールドは、競争の場ではない。
頑張れば結果がついてくる。あきらめなければ必ずいい結果が待っている。
そういう類いの場ではない。

援助者がいるフィールドは、他者が紡ぎ生きてきた場。
人生なのだから。


熱いハートを抱き続けることは大変なこと。
でも、冷静に自分の感情を吟味する方法に時間を割き続けることも、それと同等に労力のいることだ。

どちらにも、バランスよく、気づき、積み重ねることのできる援助者でありたい。
そうすれば、「援助者は決してあきらめない論」は、クライエントの利益の追求のみに、そのエネルギーを向けることができるだろうと、そう思う。




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