老いについて考える-祖母との記憶から-

公開日: 2013/05/14 思索 自分史



先日、「とある老婆の日記」という創作をお恥ずかしながらアップさせていただきました。

医療機関に勤めていると、日々「病いと老い」に対峙する人たちと出会います。私自身20代であり、「老い」について、いくら想像しようとも、そもそも想像の範囲には限りがあります。

現場1年目であった2007年、「老いとは何だろうか」ということを、物語化して、キャラクターに考えさせてみようという試みで書いたものが、「とある老婆の日記」シリーズでした。
主人公の老婆にモデルはいませんが、私個人の「人間の老い」についての記憶は、今年米寿になる祖母の存在からスタートしたものです。

個人的な話になりますが、祖母とのことについて、自分語りをさせていただこうと思います。長くなりますが、よろしければお付き合いください。


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祖母は感謝を忘れません。
決して、人の悪口をいいません。
それを老いてなお、認知症になってもなお、守りつづけています。


「人に感謝することを忘れちゃいけないよ。」
「人の悪口はいっちゃいけないよ。」


帰省し、施設に入所している祖母に会うたびに、ピントのずれた発言をしては周りの高齢者の方達、施設の職員さんたちを笑わせる祖母と言葉を交わしながら、今もなお、祖母の瞳は私にそう言っている気がしています。



祖母は、福島県生まれで、早くに実母を亡くし、継母のいじめに耐えながら幼少期を過ごしました。15歳で横浜へ丁稚奉公へ出て、その後、公務員の夫と結婚し、子どもを2人産みました。



わたしは、父親、母親に、弟、そして祖母という、3世代家族で生まれ育ちました。

わたしは祖母が字を書くのを見たことがありませんでした。
新聞もテレビ番組欄以外を読んでいるのを見たことがありません。
料理も数種類しか作っているのを見たことがありません。


教育をまともに受けなかったのだと、いつぞや祖母が言っていたのを聞いたことがありましたが、当時小学生だった自分には、その意味はよくわかりませんでした。


祖母は人の悪口を言わない人でした。そして常に笑顔の絶えない人でした。
孫である自分と弟は祖母から「かわいい。かわいい」と言われて育ち、木の棒でちゃんばら相手をしてくれたり、カブトムシを一緒に取りに行ったり、とにかく孫を愛し、多くの時間をかけてくれた祖母でした。


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そんな祖母の老いについての記憶は、私が小学生だったころに遡ります。


私が小学生のとき、祖母は軽い脳梗塞を起こし、数日間入院をしました。
それから徐々に足腰が弱くなり、認知症と思われるような症状が出てきました。
歩くのが遅くなりました。部屋から出てくる回数が減りました。


お風呂に入るにも時間がかかるので、祖母とお風呂の時間がかちあっては「ばあちゃん、早くしろよ」などと言い、優しい言葉のひとつもかけてあげることができませんでした。



祖母が、申し訳なさそうな足取りで、簡易トイレのバケツをトイレに流しにいく姿を見て、自分と遊んでくれていた頃の元気だった祖母は、もういないのだと思い、悲しくなったのを覚えています。



「ごめんね。」とうつむきがちに言う祖母に、わたしは、バケツを持つのを手伝いでもなく、言葉をかけるわけでもなく、いつのまにか、祖母はまるで「家族」ではなく「同居人」のようになっていきました。


祖母はいずれ、食事のとき以外は自室に籠るようになりました。
その頃の祖母は、滑舌がかなり悪く、話かけられてもよく聞き取れないし、祖母と話すのが面倒くさくて、わたしは受験勉強を理由に、祖母と関わるのを避けるようになりました。私が高校3年生の頃の話です。

その後、家で転倒をしたり、1人で家にいることに危険が多くなっていた祖母は、私が18歳のときに施設に入りました。

なぜだか、祖母が施設に入った頃の記憶がありません。どうしても思い出せないのです。人は本当に都合のよい生き物なのだなと、記憶が思い出せないことに気づくたびに思います。


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あれから10年が経ちました。
施設に会いに行き、車いすにのった祖母の耳元に「ばあちゃん」と声をかけると私の名前を呼びながら「嬉しい。嬉しい。」と言い、私の手を力強く握ります。


私は力強く握り返し、「これだけ力があるなら、大丈夫だね」と耳もとに語りかけます。
そうすると顔をくしゃくしゃにして笑って、「みんながよくしてくれて本当に幸せだ」と言います。これは昔からの祖母の口癖です。


いつもよく笑い、不機嫌な顔を見せない。介護をしてくれる人、周りの人みんなに感謝の言葉を忘れない。それは、今も変わらない祖母の素晴らしいところです。


この仕事をしているとわかるのですが、認知症もいろいろな症状があります。
人格が変わってしまったかのようになってしまい、温厚だった方が、感情的になったり、優しかった人が怒りっぽくなったり、などという話はよく聞くことです。

わたしは、今の祖母を見ていて、きっと、最後まで愛される人でいられるように、ぼけの神様(がいるかどうかはわかりませんが)いいぼけ方をさせてくれたのだろうなと思っています。わたしは、神様は祖母に素敵なプレゼントをしてくれたのだなと勝手に思っているのです。

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祖母が施設に入った10年前。
その春に、私も大学入学を機に、生まれ育った家を出る予定でした。
祖母が施設に入った数日後、祖母がいなくなった部屋に、わたしはひとり佇んでいました。
夕暮れ時のことでした。


祖母の部屋には、自分の知っている祖母のにおいがまるごと残ってました。
使い古した木のタンスの乾いた匂いは、わたしが幼い頃から知っている祖母の匂いでした。



祖母の部屋のものを整理しようとしていたとき、ひとつの紙袋が目につきました。
紙袋の中にはノートが数冊。日に焼けたノートは、私が小学生時代に書いていた漫画のノートでした。

小学生のころ、ノートに書いていた漫画たち。その一番の読者は祖母でした。


当時流行っていたドラゴンボールを真似た内容で、意味なんてわかるはずないのに、「おもしろい。すごいね。絵がうまい!」と演技力抜群のリアクションをしては、孫を喜ばせてくれていたんだな、と思い、当時の記憶が溢れ出したのを覚えています。



祖母はそんな孫たちとの思い出を大切に取っておいてくれたんだな、と思うと、申し訳なくて、なんで邪険にしてしまったのだろう、老いて、認知症のはじまった祖母になんでもっと優しく、気にかけてあげられなかったのだろう、と後悔ばかりが浮かんで、祖母の部屋で、声を出して泣いていたのを覚えています。



祖母が大切にとっておいてくれたノートを見てみると、日付が書かれていました。
きっと、思い出のアルバムのように、日付を祖母が入れてくれたのでしょう。

祖母は、孫たちのノートに、どんな想いで日付を書き込んでいたのだろう。
そう想像しては、日が暮れるまで、鼻水をすすりながら、そのノートをめくり、施設にいってしまった祖母の顔を思い出そうとしていました。



数日前までいたはずの祖母の顔がよく思い出せなかったのです。
久しく、ちゃんと祖母の顔をみようとしていなかったんだな。もう、そのことに気づいた頃には、夕暮れ時のその部屋に、祖母はいませんでした。



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身体が弱っても、認知症になっても、「そこにいる」というだけで、誰かの心に華を咲かせたり、誰かに学びを与えてくれる。「みんながよくしてくれて本当に幸せだ」と心から笑って言える人生。


誰の悪口も言わない。
人への感謝を忘れない。


簡単で、明日からでもできそうだけれども、その難しさを多くの人が知っているこの2つの信条を、祖母はきっとずっと心に決めて生きてきたのだろうと思います。


そして、それを貫いてきたからこそ、80を超えた今、老いて、認知症の進んだ今もなお、その生き方を体現することができているのだろうなと思うのです。


祖母との時間の中で得たものは、きっと私がこれから年を取るごとに、今は気がつくことのできないことに新しく気づき、その都度、祖母を「生き方の師」として見つめ直し、祖母の顔を思い出すのかもしれません。


今、ただひとつだけ、私が「老いる」ということについて言えることは、
「人は、老いてなお、ただそこに”いる”だけで、他者に学びを与えられる存在なのだ」
ということです。

このことを、わたしは祖母から学びました。


実家を離れて暮らす私は、帰省するたびに祖母に会いにいきます。
祖母の顔を忘れないように。18歳のときにした、後悔を拭うように。
もう二度と、あんな後悔をしないように。


生き方の師としての、祖母の顔を焼き付けておくために。




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