個人のイメージ戦略における「形容詞的言葉」と「動詞的言葉」について考える

公開日: 2013/05/07 思索



仕事などで、イメージ戦略的にその人が「押し出したいだろうイメージ」と、実際に受け手が感じるイメージが乖離している人に会うと、職業的に心の中ではこうしたほうがいいとか色々言いたくなるけれど、そうするとイヤなヤツになっちゃうので自重している…。


「乖離」をいい意味でのギャップという武器にしているのであれば、採用しているイメージ戦略は、それなりに「成功」なのかもしれないけれど。どうもそうではなさそうだ、ということにも出くわす。


自分に付した「他者に、自分をこうイメージさせたいという言葉」(形容詞的言葉)と、実際に対面で、その人が発する「わたしは、こうであるという言葉」(動詞的言葉)を一致させたほうがいい仕事と、そうでなくてもいい仕事があるように思う。


おそらく、「クリエイティブ系」と呼ばれる職業の人は、奇をてらうことを目的としない限りは、形容詞的言葉と動詞的言葉は一致させたほうがいいのだろうと感じる。


「他者に自分をこうイメージさせたいという言葉」(形容詞的言葉)と、実際に対面で、その人が発する「わたしは、こうであるという言葉」(動詞的言葉)について考えることは、やれセルフブランディングだなんだと語られる昨今、もう少し突っ込んで考えてみてもおもしろいテーマだと思うので、詳しくは改めて別エントリで記したい。


これは、ソーシャルワーカーにも言えることでもあるのだけれど、何かを提供する際、提供する側に「あそび」がないと、対象者の「揺れや、動機づけの強弱」に付き合うのが難しくなる。


対象者のバックグラウンドを想像せずに、向けられた善意や意思は、ときに対象者を傷つけたり、パワーレスに陥らせたり、モチベーションを低下させたりする。「あそびのない強固なメッセージや要請」は対象者を追い詰めてしまうことさえある。


欲求も動機づけもレベルがあり、相手のレベルを勘案し、その上で、焦点化することができないと、相手の深部まで到達できない。つまりは、「これはわたしが求めているものと違う」と入り口で拒否されてしまうように思う。


何かをはじめるとき、プランニングを行なうとき、ニーズ調査、欲求・動機づけのレベルをデザインすることが大切なのは、おそらく、前述したことがあるからなのかもしれない。


新たな学びと、自分の経験がリンクして、少し腹に落ちた感じがする最近。




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