”専門職としての自分”と”1人の人間としての自分”(エッセイ)

公開日: 2013/08/09 MSW 思索



数ヶ月前の出来事。

長いお付き合いだった患者さんが亡くなった。
その奥さんが、主治医と担当ソーシャルワーカーだった自分に
挨拶をしに病院までわざわざ足を運んでくれた。


主治医と自分と奥さんとで数分立ち話。



奥さんが、過去の関わりの記憶を言葉にされながら、
「いつも、ふたりで、いいタッグで、支えてくれてありがとう。」と一言。


主治医と自分で、顔を見合わせて、どんな顔をしていいかわからず
照れ笑いをしながら、少し涙腺が弛んだ気がした。


涙腺が弛んだ理由は、”援助過程が終結したから”なのだろう。
そう思うことにした。


援助関係という枠が外されたからこそ、言える言葉、言うべき言葉
できる表情、というものがある。そんなことを思った。


患者さん家族を、診断的な視座から、眺めることを止めることができたとき。
患者さん家族を、観測物のようにみてしまうことから、離れることができたとき。
目の前の人の生き様に対し、自然と尊敬の気持ちを抱くことができたとき。


それは、”1人の人間としての自分”が、”専門職としての自分”より、
意に、前面に出てこようとしているときなのだとおもう。


これは、よいとか悪いとかそういう類いのものでなく、
ソーシャルワーカーとしての自分に多くの気づきをもたらす。


専門職として生きてきた時間が、皮膚のように自分の身体に染み込めば染み込むほど、
”1人の人間としての自分”の上に積み上がる”専門職としての自分”が良い意味でも、悪い意味でも、”1人の人間としての自分”としての振る舞いや価値判断をコントロールするようになる。


”1人の人間としての自分”、”専門職としての自分”

両者を行ったり来たりしながら、上手く出し入れをしながら、
適度に分量を調整しながら、日々、現場に立つ。
それはもう当たり前すぎていまさら、言及すべきことはあまりない。


「奥さんも、ご活躍を!」


去り際、「明日も仕事なのよ!」と笑う奥さんの横顔と背中に向けて、
思わず口から出た言葉だった。


お元気で、とか、お体に気をつけてとか、他にも言葉はあったのかもしれない。


でも、援助過程が終結した今だからこそ言える、
ちょっとだけ無責任な、でも、相手の未来に向けた、エール。


これからも続いていく奥さんの人生に対して、少しばかりのエールを送りたかった。


それがきっと、”1人の人間としての自分”が奥さんに送りたかった言葉なのだろうなと、その言葉を口にしてすぐ、遠くから三たび頭を下げている奥さんを見て、そう思った。




………………………………………………………………………………

2ヶ月に1回、ソーシャルワークを語る会を開催しています。



【こちらもどうぞ】
Blogエントリ目次:当Blogのエントリをカテゴリ別にまとめました。
アンケートを実施しています:当ブログへのご意見をお聞かせください。
「ソーシャルワーク言語化のススメ」:メールマガジン刊行中です。
  • ?±??G???g???[?d????u?b?N?}?[?N???A