毎日の素振りもしない援助者が、バッターボックスに立つとき、クライエントの人生に与える影響について考える

公開日: 2013/10/25 MSW 教育 思索 自己覚知 問いから言語化に至るプロセス



本エントリでは、『毎日の素振りもしない援助者が、バッターボックスに立つとき、クライエントの人生に与える影響について考える』と称し、対人援助職が有する、クライエントに不利益を及ぼすリスクについて考える。


1.援助の場に立つ時に、考えるべき問い

過去エントリ「情報の非対称性という構造が生む、クライエントと援助者間の思考過程の違いについて考える」において、以下のように述べた。


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情報の非対称性という構造が生むクライエントと援助者間の思考過程の違いについては、主に以下のように表される。
・対人援助職   :事実→見通し→逆算思考 
(ゴールに向けての計画を立て、物事を進める) 

・クライエント:事実→根拠の薄い想像→順算思考
 
(目の前のことに対処しながら、物事を進める)


「見通し」と「根拠の薄い想像」この両者の違いを決定付けているのが、「情報の非対称性」だ。
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上記のように、クライエントとの間で、援助者側に為すべき援助のプロセスが見えたとき、逆算思考的に援助は展開され、同時に、援助はベルトコンベア的なものになる危険性を同時に併せ持つことになる。


ベルトコンベアのルートが見えているのは、援助者だけであって、それはクライエントには見えない。ルートが見えると、先の景色もよく見えるようになり、どうしても足下に注意が向かなくなるので、ベルトコンベアの上にある”障壁”に気づくことが難しくなる。


”障壁”は、クライエントの中に存在する”決してショートカットできないなにか”であって、それは踏むべきプロセスのひとつであったり、心理的なものであったり、誰かの保証を得ることが必要なものであったり、時間であったり、様々な要素で構成されている。


援助者が見立てた援助のルートにおいて、クライエントの”障壁”をも同時に見立てることを怠ると、ベルトコンベア式援助は遂行され、ベルトの間に障壁が巻き込まれ、ルートは崩壊し、ときにクライエントに不利益を及ぼす。


だから、私は、まず「私が関わることで、このクライエントに不利益を生じさせることがないか」という”問い”から全てをスタートさせる。


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2.援助者としてのポジショニングと、前提条件・構造を知ることの意味


”援助者”というポジショニングからはじまる”かかわり”は、それ自体が、「わたしが関わることで、クライエントの利益を生む」という前提からはじまる。
しかし、その前提自体を批判的視座で”考える”ことは、安易なベルトコンベア式援助にクライエントをのせてしまうことを防ぐ術のひとつになる。



「援助者としての自分が前提条件として有するものを知っておくこと」


このことに、私は非常に意味があると思っている。
それは、ソーシャルワークや、対人援助の場に置おける、様々な「構造」がそうだ。
”特殊な構造が存在する”という前提条件を有しているという自覚は、援助過程を客観的・批判的視点でみることを助ける。


私は、様々な”構造”という名の前提条件を勘案し、その中で、自分のポジショニングを確かめる。その上で、「今、この構造の中で、このポジションを取りうることのできる援助者としての自分が、クライエントに対し、不利益を与える要素・リスクがどのようなものか」を考えた上で、関わる。


”援助者としての自分が、クライエントに関わることで、必ずプラスになる”という前提条件を有し、現場に立っているのだとしたら、それは非常に危険だ。なぜなら「私が関わることは避けた方がいい」という”撤退”や”変更”というカードが切れなくなるからだ。


「大胆に、迷うことなく、決断できる援助者」が必ずしもいいわけではない。シニカルすぎるくらいの自己批判的精神を有した援助者は、「私が関わることは避けた方がいい」という”撤退”や”変更”というカードを、容赦なく切れる。



”援助者としてのカラダ”は、臆病なくらいで、丁度いい。


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3.援助者としてのカラダは、暴走するリスクを有する。


”援助者”というポジショニングを誤ると、援助者のカラダは、”「私は援助者だという」特権・権力的な身体”にさせてしまうリスクを生じさせてしまう。
それはときに、クライエントのシステムを、安易に切り刻み、修復どころか新たなエラーを生じさせてしまう。



”私は援助者である”というポジショニングを取ることには、前述した”リスク”を有するということを私の援助者としてのカラダは知っている。


だから、私は、まず「私が関わることで、このクライエントに不利益を生じさせることがないか」という問いから全てをスタートさせる。そうでないと怖いのだ。



私は、決して、自分の援助者としてのカラダを”「私は援助者だ」という特権・権力的”なるものにさせてはならないという決意と覚悟がある。援助者としてのカラダは使いようによっては、クライエントシステムを切り刻む。だからこそ、私は、援助者としてのカラダを活かすために臆病な程、前提条件を見定める。


先日、現場で危うく、カラダが”特権・権力的”に引きずられそうだと自覚した瞬間があった。しかし、前述したことを考えてきたから、意識的に引き戻すことができた。日々が、鍛錬だ。1秒だって、思考しなければ、得られるものは減っていく。




4.援助者としての素振りを怠れば、援助者としてのカラダは暴走し、クライエントシステムを切り刻む


具体的に言おう。


例えば、他機関から紹介され訪れたクライエントが「前の機関で、こういうことがあって…」等、援助者として「前の機関のヤツはダメ。質が悪い」等と思うとき、批判なんぞする暇があるなら「自分もクライエントに不利益を与えたり、意図せずスティグマを押し付けていないか?」という内省に活かせということだ。


こういうクソ無駄な時間を浪費するぐらいなら、
事例の一本でも書いた方が数万倍有益だろう。


援助者と名乗る全員が、現場ですぐに援助者になれるなら、
草野球のバッターは、みんなメジャーリーガーになれる。


毎日の素振りもしない援助者が、バッターボックスに立ったら空振りするのは当然だ。


空振りしたらクライエントに不利益及ぶ。


だがしかし、3回空振りで「ストライク、バッターアウト!」は許されない。

自覚があるならやることはそう多くないはずだ。



援助者として、バッターボックス立つ。 空振りすれば、クライエントに不利益を及ぼす。



あなたは、バッターボックスに立っていない時間を、
どう使って、援助者としての”素振り”を行いますか?


この問いに答えられないなら、既にあなたの援助者としてのカラダは、暴走するリスクを多分に有し、明日にでも、クライエントシステムを切り刻む”特権・権力的”になるやもしれない。



そして、それは、クライエントの人生に関わるかもしれない。

それくらい、私たちの仕事は、重い責任を背負う。

そのことで、自覚的であれ。

それができないのであれば、草野球の世界で留まっているほうがいい。



私は、日々、素振りをし、メジャーリーグを目指す。

さあ、あなたはどうする?





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