「援助者としてのカラダのリスク・マネジメント」について考える

公開日: 2013/11/10 MSW キャリアデザイン 教育 思索 自己覚知



対人援助職として、それなりに現場に慣れてきて、さて、というときに、まずやるべきは、「援助者としてのカラダのリスク・マネジメント」だと考える。


クライエントに不利益を及ぼす可能性、構造、前提条件をカラダに叩き込んでおく、ということ。これは自己覚知に関連して、ものすごく大事なことだ。


対人援助職の領域で用いられる「自己覚知」(自分をよく知ること)は、「援助者としてのカラダのリスク・マネジメント」と、「クライエントに最良のパフォーマンスを提供するための援助者としてのカラダづくり」に直結する。


「援助者としてのカラダのリスク・マネジメント」は、「クライエントに不利益を与えることを防ぐ」ために必要だ。それ以外の理由は存在しない。


本エントリでは、「援助者としてのカラダのリスク・マネジメント」について考えると題し、考えるところを述べていく。


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目次

1.「自分に禁ずべき言葉」を定めること。
2.言葉は、扱い手である主(あるじ)の毒となり、カラダを侵蝕する。
3.自分の価値基準を知るために
4.援助者としてのカラダのリスク・マネジメントの不備は、クライエントシステムを破壊するリスクを高める。

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1.「自分に禁ずべき言葉」を定めること。


良心とか熱意とか想い(あんまり好きな言葉ではないが)とか、そういったものが他者に向けられる時、それを概念化して、専門職として為すことに用いるのであれば、「それらが刃になるとき」を想像した上で為さねばならない。


自分の無為で意識外にある”意”が、クライエントを切り刻まないか?と。


対象概念というか、対角線にあるものを、きちんと視界の隅に入れておくこと。
そうすることで、想像可能な領域は拡大する。


”何気ない言葉・行動の選択”は、援助者としてのカラダを鍛えてきた人間であれば、それを”末梢神経”のように感じていると思う。援助者としてのカラダが弛緩し切っていると、醜い脂肪みたいな”言葉・行動”が多くなる。言葉と行動の数だけ多くても、それが醜い脂肪によるものであれば、無意味だ。


せめて、現場に立つ際に「自分に禁ずべき言葉」を定めること。
それだけで、援助者のカラダの弛緩は防げる。


「自分に禁ずべき言葉」とは、「口にすると自分のカラダが重くなるような醜い脂肪の多い言葉」だ。言葉の選択は、援助者としての思考の深度を下げ、カラダの弛緩を防ぐ。


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2.言葉は、扱い手である主(あるじ)の毒となり、カラダを侵蝕する。


「自分に禁ずべき言葉」=「口にすると自分のカラダが重くなる醜い脂肪の多い言葉」を排すと明らかに行動が変わる。他者から浴びる言葉は選択できないが、自分が口にする言葉は選択できる。自分が扱いたい言葉を選び、カラダに合わない言葉は排していくということを3ヶ月でも続ければ何かが変わる。


それから、他者が口にする言葉を、「これは、自分のカラダが重くなるような脂肪の多い言葉」であると感じたとき、決して「同調」しないことだ。
適当に「聞いてるふりし、流せばいい」カラダは正直で、自分が言わずとも「同調した」ということで、ストレスを被り、カラダは淀む。



別に私は、言語学を学んだとか心理学的なバックボーンもないので、偉そうなことは言えないが、現場で言葉とカラダについて思考を続けてきた身としては「自らが発した脂肪分の多い腐敗臭のする言葉によって、また自らのカラダが淀み、弛緩していく」という言葉に無頓着な人間を見ていて、そう思うのだ。


言葉は、主(あるじ)に反し、ときに、主を侵蝕しようとする。
言葉を飼い慣らしているはずの主(あるじ)が、吐き出された言葉自体がもつ毒にやられ、カラダを侵蝕され、淀み、弛緩させられる。自分のカラダに合わない言葉を排し、同調せずいることで、それらに対抗できる。簡単なことだ。


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3.自分の価値基準を知るために


カラダに合わない言葉を排していくと、自分のカラダに合わない言葉にカラダが敏感になる。不純物のように察知するからだ。それは、自分にとって相容れない価値観がどういったものか、ということを知るためのセンサーを得ることを容易にする。

「自分の価値観がわかりません」なんていうのは、自分に合わない言葉を排す作業を3ヶ月でも続ければ、簡単にわかるようになる。不純物を排するように、自分に相容れない価値観に出会うと、適切な反応を起こすようになるから(怒りであったり、嫌悪であったり)


かのバイスティックも、クライエントの有する価値や判断の基準を多面的に評価する態度が、援助に欠かせない理由として以下3つをあげている。(レジュメ参照)


1. ケースワーカーはソーシャルワーカーとして社会的な責任を負っているという理由 

2. 社会に背いたり、法律を無視したり、道徳に反したりするCLの態度自体が、問題の中核である場面が少なくないという理由 

3. ケースワーカーはいろいろな基準をもったCLに対応する際に、自分のもっている価値基準と対立するようなCLの基準に従おうとするあまり、ワーカー自身のパーソナリティの統合を危うくする必要はないという理由


自分のもっている価値基準がわからないなら、カラダに合わない言葉、カラダが嫌がる言葉を排して過ごしてみることだ。3ヶ月続けてみてほしい。多くのことに気づくことができるだろうから。(私がサンプルだ)


私は、怒ることはあまりないが、「自分に相容れない価値観に出会うと、適切な反応を起こす」というコードが、カラダにセットされているので、それにひっかかる価値観に出会うと、腸が煮えくり返りそうなほどの怒りが腹の底から沸き上がる感じを得る。これは、誇張表現でもなんでもなく、本当にそうなのだ。


だから、「相容れない価値観」がどのようなものか、ということが、はっきりとわかる。カラダが教えてくれるから。これは、自分に合わない言葉を排していった結果だと思っている。


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4.援助者としてのカラダのリスク・マネジメントの不備は、クライエントシステムを破壊するリスクを高める。



「援助者としてのカラダのリスク・マネジメント」について考えることで、クライエントに与える不利益について想像を働かせることができる。「頑張る。あきらめない」という主体を取り違えた精神論だけで、突き進む対人援助職ほど、タチの悪いものはない。





”援助者”というポジショニングを誤ると、援助者のカラダは、”「私は援助者だという」特権的破壊の刃”化させてしまうリスクになる。 
それはときに、クライエントのシステムを、安易に切り刻み、修復どころか新たなエラーを生じさせてしまう。




対人援助職とクライエントが出会うのは競争の場ではない。
そして、点数を競うテストでもない。
クライエントの人生というフィールドだということを自覚せよ。


アンタだけが頑張ればどうにかなる問題じゃない。
アンタの青臭い精神論が、ときにクライエントシステムを切り刻む愚鈍な刃になるかもしれないということを、私は、強く、強く自覚したい。


であるからこそ、「自らの援助者としてのカラダが、クライエントに不利益を生じさせるリスクは如何ほどか」ということを勘案することは、専門職として、取るべき思考プロセスのひとつであると私は強く思う。







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